ページ概要:町指定の有形文化財を紹介します。

恵海上人五輪塔

 呼び方:けいかい しょうにん ごりんとう
 種 別:有形文化財建造物
 指定年月日:昭和58年3月5日

 解説
  永福寺三十世恵海上人は、盛岡城の築城とともに、お城の鬼門鎮護のため移された盛岡永 福寺の開祖にあたります。恵海上人は、新しく城下町を形成するにあたって、胎蔵界曼陀羅によって寺院を配置することを建言した、といわれています。1617年(元和3)5月19日入寂。
五輪塔には「傳燈大阿闍梨……」「法印恵海上人」と刻まれています。

 

桜場安房の墓石

※私有地のため非公開 

 呼び方:さくらば あわ の ぼせき
 種 別:有形文化財建造物
 指定年月日:平成17年9月28日

 解説
 桜庭安房直綱は、はじめに佐々木与三郎と称し、1589年(天正17)元服のとき南部信直公により直の一字と、国次の脇差を賜りました。直綱は、赤石館主として二千石を領し、1592年(天正20)の諸城破却のころから三戸城内に居住しました。
 26代信直公、27代利直公に仕え、1620年(元和6)没。墓石に「捐舘覚翁圓公居士覚霊」と刻まれています。

岩舘右京の墓石

※私有地のため非公開

 呼び方:いわだて うきょう の ぼせき
 種 別:有形文化財建造物
 指定年月日:平成17年9月28日
 
 解説
 岩舘右京義矩は、南部27代利直公に仕え、糠部郡のうち岩舘村八十二石二斗を知行し、三戸城下の南の固めである沼尻惣門に居住しました。公の知遇を受け、1608年(慶長13)二百石に加増されました。
 義矩は、利直公が逝去された翌月の忌日、1632年(寛永9)9月18日に殉死しました。行年53歳。法号、覚岩宗正居士。

八木橋藤十郎の墓石

 呼び方:やぎはし とうじゅうろう の ぼせき
 種 別:有形文化財建造物
 指定年月日:平成17年9月28日

 解説

 八木橋藤十郎武茂は、南部利康死去の翌月の忌日、1631年(寛永8)12月21日に殉死しま
 した。武茂は、孫左衛門茂吉の長男でまだ部屋住みでした。行年26歳。法号、忠岳宗順禅定
 門。
 二つの石碑が建っているが、自然石のほうが当初に建てられた墓碑で、切り石のほうは武茂の末弟にあたる茂右衛門茂喬が、1751年(寛延4)に建碑したものです。
 27代藩主利直公は、藤十郎武茂の忠死を賞されて父の茂吉に玄米三十石を加恩し、弟二人に五十石ずつを与え、両子の病死により茂吉に対して旧知行と合わせて二百石を与え、子孫に伝えさせました。

早稲田観音像

 ※非公開

 呼び方:わせだ かんのん ぞう
 種 別:有形文化財彫刻
 指定年月日:昭和53年10月17日

 解説
 おだやかな御面相の十一面観音像で、頭上には頂上仏面及び化仏をいただき、衲衣は通肩になっています。右手は下げて右膝の上に掌を上に向けて出し、いわゆる与願印を結び、左手には蓮華を持っています。眼には玉眼がはいっていて、唇には口紅がされ、額には白毫もあります。蓮華座の上に結跏趺坐の姿で、背後には二重輪光背を付けています。台座の総高は60cmで、上部の蓮弁の部と下の八角形の框座との中間には敷茄子があり、敷茄子の真中には獅子の彫刻がほどこされています。本格的な彫刻の観音像であって、おそらく室町時代頃の作かと思われます。奥州南部糠部三十三番の二十三番の札所。

 

 

隅ノ観音像

 ※非公開

 呼び方:すみの かんのん ぞう
 種 別:有形文化財彫刻
 指定年月日:昭和53年10月17日

 解説
 体の割合には頭部は少し大きいように思われ、きつい眼をしていますが、ふくよかな御面相をしている聖観音像です。宝冠はなく、宝髻のみ頭上高く結い上げられ、額の白毫はとれて無くなっています。左手は前に出して左膝の上に置いていて、多分蓮華でも持っていたものと想像されるような手の格好をしていますが、今は何も持っていません。衲衣は通肩、胸飾もありません。僅かながら彩色のあとが見られます。台座は蓮弁のない半円形の椀形をしていて、その下の台の表面には反花の彫刻のある台座で、観音像本体の彫刻の手法にくらべて、台座の彫刻は少し素朴過ぎるような感じのする台座です。光背は無くなっています。像高30cm。

 

 

観音菩薩立像(奇峯学秀作)

 ※非公開

 呼び方:かんのん ぼさつ りつぞう(きほう がくしゅう さく)
 種 別:有形文化財彫刻
 指定年月日:平成3年4月17日

 解説
 この学秀仏は、小井田幸哉氏の「向村上平、三縁堂新山神社境内、昭和十五年一月二十一日スケッチ」が契機で、探し出されたものでした。三縁堂は大向館のうち中館(別名エゾ館)の北側中段の台地(上平)の一隅にあり、往時は館の守り神として毘沙門天が祀られていましたが、学秀仏が合祀されたものと思われます。この堂は、三戸住谷御野守、留目家の総本家が昭和の初期まで管理していましたが、その末裔・留目正實氏家から発見されたことは奇しき仏縁です。現在は里帰りして長谷恵光院「奥の院」に安置されています。像高38cm。

 

鰐口

 ※非公開

 読み方:わにぐち
 種 別:有形文化財工芸品
 指定年月日:昭和59年3月13日

 解説
 鰐口に彫られている銘から、泉山清右衛門が1657年(明暦3)8月、南部28代重直の時代、
 八幡宮に奉納したものです。

 

 

櫛払

 読み方:くしはらい
 種 別:有形文化財考古資料
 指定年月日:平成9年6月27日

 解説
 櫛払は、櫛についた汚れを払う化粧道具の一つで、朱漆が塗られています。長さ4.2cm、
 厚さは3mm。平成6年度に出土しました。

 

 

上名久井諏訪神社棟札(2枚)

 ※非公開

 呼び方:かみなくい すわじんじゃ むなふだ
 種 別:有形文化財歴史資料
 指定年月日:平成12年10月31日


 解説
 上名久井諏訪神社は、町史に「該社ハ永正二丙寅年七月九日ヲ以テ創立シ建御名方命ヲ祭神トシス」と
 あり、旧名久井村の村社として古くから多くの村人から崇拝されてきています。神社には棟札が17枚保存
 されていますが、古いものは永正二丙寅年と元禄元年壬辰年となっており、およそ五百年の歴史を刻む由
 緒ある棟札です。

 
 

木造僧形山神半跏像

 ※非公開

 呼び方:もくぞう そうぎょう やまのかみ はんかぞう
 種 別:彫刻
 指定年月日:平成21年11月18日

 解説
 恵光院には「山の神」として伝えられてきたが、青森県史叢書『南部の仏像』では、「役行者半跏像」江戸時代以前の作と紹介されている。役小角(えんのおづぬ)は役行者(えんのぎょうじゃ)とも呼ばれ、修験道の開祖として尊崇される人物である。
 名称については、像が右手に持つ「マサカリ」により、専門家の意見の分かれる所ではあるが、恵光院住職の見解と、僧侶の頭巾、衣装、袈裟を身に付けていることから「木造僧形山神半跏像」とした。総高約55cm。

 

 

木造薬師如来像

 ※非公開

 呼び方:もくぞう やくしにょらいぞう
 種 別:彫刻
 指定年月日:平成27年2月17日


 解説
 奇峯学秀作  享保二十年(1735)  像高94.7cm  台座高7.0cm                        
 奇峰学秀(生没年不詳~1739)は現在の三戸郡田子町出身の江戸時代中期の僧侶である。岩手県九戸村伊保内の長興寺七世(一説に十一世)住職を務めたのち、八戸大慈寺の六世として迎えられ、正徳二年(1712)には千体の観音像を彫り、八戸藩の各地に寄進した。さらに十年後の享保七年(1722)には、田子町釜淵観音堂において再び千体の観音像を彫った。弥勒菩薩像や十一面観音像は田子町姥ヶ岳神社に残され、地方仏師の貴重な作品として、県重宝に指定されている。晩年は五日市の牛頭天王堂(八坂神社)南側の三書林顧養庵で余生を送っていたと伝えられる。元文四年(1739)に入寂し、三書林顧養庵の墓地に葬られた。                    
 この薬師如来立像の背面には「享保二十乙卯歳四月八日 八戸大慈六世奇峯学秀作」と学秀自刻の銘があり、学秀が享保二十年(1735)、薬師様のご縁日である四月八日に寄進したことを物語っている。

 

木造牛頭天王像

 ※非公開

 呼び方:もくぞう ごずてんのうぞう
 種 別:彫刻
 指定年月日:平成27年2月17日

 解説
    奇峯学秀作  像 高 約70cm                                
 奇峰学秀(生没年不詳~1739)は現在の三戸郡田子町出身の江戸時代中期の僧侶である。岩手県
 九戸村伊保内の長興寺七世(一説に十一世)住職を務めたのち、八戸大慈寺の六世として迎えら
 れ、正徳二年(1712)には千体の観音像を彫り、八戸藩の各地に寄進した。さらに十年後の享保七年(1722)には、田子町釜淵観音堂において再び千体の観音像を彫った。弥勒菩薩像や十一面観音像は田子町姥ヶ岳神社に残され、地方仏師の貴重な作品として、県重宝に指定されている。晩年は五日市の牛頭天王堂(八坂神社)南側の三書林顧養庵で余生を送っていたと伝えられる。元文四年(1739)に入寂し、三書林顧養庵の墓地に葬られた。   
像は牛面を額にほどこし、髪を逆立て、目と眉を吊り上げたきびしい表情をしており、左手に斧、右手に羂索を持ち、堂々と台座に座っている。顔は胡粉と朱で彩り、これまでの学秀の作柄とは異なっている。                     
牛頭天王は京都祇園の八坂神社の祭神で、疫病を防ぐ神であり、薬師如来を本地仏とし、神道におけるスサノオ神と同体であるとされている。
この牛頭天王像は同時期に奉納された棟札から、学秀入寂の2年前にあたる元文二年(1737)に、名久井村三書林顧養庵で余生を送っていた学秀が、名久井村の梅内宇兵衛の依頼で製作し、牛頭天王堂に納められたものである。棟札とともに残されている例は他になく貴重である。また、製作年代が棟札から明らかになっている上、その年代から学秀最後の作と考えられる。

木造薬師如来立像

 ※非公開

 呼び方:もくぞう やくしにょらいりつぞう
 種 別:彫刻
 指定年月日:平成27年2月17日

 解説
   奇峯学秀作  像 高 19.3cm  台 座 1.9cm
 この立像は、学秀が晩年を過ごした五日市の三書林顧養庵跡にほど近い、下名久井の高森家に代々
 伝えられたものである。小ぶりではあるが、左手に薬壺を持つ珍しい像で、精緻に彫られた優品で
 ある。製作年代は不明であるが、伝えられた場所から学秀晩年の作である可能性が考えられる。

 

 

 

 

 

牛頭天王棟札

 ※非公開

 呼び方:ごずてんのう むなふだ
 種 別:歴史資料
 指定年月日:平成27年2月17日

 解説
 長さ 約90cm
 裏面には学秀の署名と花押がある。これは唯一のものとされている。
 表の墨書きは、
 聖主□中天 五日市村梅内宇兵衛實武与申仁有之
 迦陵頻伽聲 知善悪之業知過去現在未来捨悪
 哀愍衆生者 取善禅者成然當所従古来牛頭天王
 我等今敬禮 之宮有之新作天王為菩薩因願望成就畢
       天文二乙巳年 七月十七日 施主梅内宇兵衛實武
 裏の墨書きは、
 牛頭天王作者 八戸大慈寺六世奇峯學秀 花押                     
 八坂神社境内にある間口二間、奥行一間半の牛頭天王堂に牛頭天王像とともに置かれている。  
 この棟札は学秀入寂の2年前にあたる元文二年(1737)に、名久井村三書林顧養庵で余生を送っていた学秀が、同じ村の梅内宇兵衛の依頼で牛頭天王像を製作し、牛頭天王堂に納めたことを記録したものでる。学秀仏とともに納められた棟札としては現存する唯一のものであり、学秀の花押が墨書された唯一のものでもある。牛頭天王像とともにこの棟札が納められた場所も学秀が晩年を過ごし、入寂した土地であり、学秀の晩年の軌跡を読み解く上も貴重である。

向鶴銅製品

 呼び方:むかいづる どうせいひん
 種 別:考古資料
 指定年月日:平成28年5月18日
 出土地:史跡聖寿寺館跡


 解説
 中世段階で「向鶴」が施された製品としては初めてとなる青銅製刀装具が出土した。この製品は聖寿寺館跡の中心的な建物である大型掘立柱建物跡(建物B)を構成する柱穴の中から出土した。長さ26mm、幅13mm、厚さ3mmで、刀の柄の装飾として施された「目貫(めぬき)金具」と考えられる。遺構の年代から15世紀後半から16世紀前葉のものと推定される。1円玉ほどの円が二つ連なり、ぞれぞれの面に鶴が施され、向かい合った状態となっている。

金箔土器

 呼び方:きんぱくどき
 種 別:考古資料
 指定年月日:平成28年5月18日
 出土地:史跡聖寿寺館跡
 


 解説
 金箔が施された土器は、平成26年度に聖寿寺館跡の中心的な大型掘立柱建物である建物Aを構成する柱穴と、その付近にぞれぞれ1点ずつ出土した。どちらも幅4.5cm程度の口縁部破片であり、厚さは4mm。手づくねの土器の内外面に黒漆が塗られ、その上に金箔が貼られている。翌27年度には15m東方の柱穴よりロクロ成形の底部片が1点出土している。底部片は底以外に金箔の付着が見受けられた。金箔土器は全国的にみても類例は少なく、後北条氏の小田原城(神奈川県)、八王子城跡(東京都)や毛利氏の居城である吉田郡山城跡(広島県)、大内氏の大内氏館跡(山口県)等、室町時代から戦国時代を代表する大名の居館等でしか出土していないのが特徴である。三戸南部氏は1418年(応永25)13代守行が室町幕府4代将軍義持に馬百疋、金千両を献上し、1539年(天文8)には24代晴政が12代将軍義晴から晴の字を偏諱されている。金箔土器の出土は東北地方では初であり、国内の出土例をみると各遺跡からは破片が数点しか出土していないことから、当時としても希少性の高いもので、都や北陸等の交渉の中で持ち込まれたものと推測される。出土した金箔土器は手づくねとロクロ成形の2種類あり、手づくね土器が浅い皿であることに対して、底部片は立ち上がりがきつく、それぞれ器形が異なる。産地や入手経路についても異なる可能性がある。

 

相内神明宮お神楽(獅子頭) 

 呼び方:あいないしんめいぐうおかぐら(ししがしら)
 種 別:彫刻
 指定年月日:平成29年3月15日
 

 解説                                           

 相内神明宮に伝わる神楽は、寛政年間初めに相内で発生した23戸の大火を受けて、36代南部利敬が災難を治めるために火伏神楽を行ったのがはじまりとされる。獅子頭内面には36代利敬の幼名と彫師、塗師の名前等が刻まれている。

大仙院周字示之 奉納 相内神明
獅子頭一頭 太守三十六代慶次郎公
御武運長久 国家半繁昌 于時
寛政五壬子七月吉日
彫刻 岩間善征 塗 馬場宗容

 西有穆山関係資料

呼び方:にしありぼくざんかんけいしりょう
種 別:歴史資料
員 数:9点
指定年月日:平成31年3月20日
 

解説
 西有穆山(1821~1910)は幕末から明治期にかけて活躍した現八戸市港町生まれの禅僧。曹洞宗の開祖道元が著した『正法眼蔵』の研究と伝承に寄与した人物。13歳で仏門を志して出家後、14歳から5年間の修行生活を法光寺で過ごした。明治7年(1874)からは、法光寺三十世として3年間住職を務めている。明治34年(1901)からの4年間、曹洞宗に大本山の一つである總持寺(神奈川県横浜市)の貫首を務め、また明治35(1902)には、青森県出身者としては初めて曹洞宗最高位である菅長に就任した。国登録有形文化財「法光寺承陽塔」の発願者でもある。
 穆山とゆかりの深い法光寺には、穆山が残した書画や墨書、書状が良好な状態で数多く所蔵されている。書画には親しみやすい絵や禅の教訓が込められており、穆山の求道者としての志や気概を知る上で貴重な資料と位置づけられる

 

 

 

剣吉諏訪神社棟札

 ※非公開

   読み方:けんよしすわじんじゃむなふだ
 種 別:有形文化財・歴史資料
 指定年月日:令和元年11月20日

   解説
  御輿が建造された明和8年の棟札で、御輿建造の際に寄付をした剣吉村の村民124名の氏名と町名が記されている。棟札の記述により当時の剣吉村の広がりや村民の氏名と居住地が明らかとなった。御輿の建造に関する貴重な歴史資料である。